今より三百年ほど前、高岩寺が上野屏風坂にあった頃の話である。正徳三年(1713年)、武士 田付又四郎は小石川に住み、高岩寺の信心深い檀徒であった。その妻も地蔵菩薩を篤く信仰していました。しかし、出産後に重い病を得て床に臥し、医師の治療も甲斐がなく、手足は竹のようにやせ細ってしまいました。妻も「実家に取り憑いた怨霊のたたり」とまでいい出すしまつでした。
悲しんだ又四郎は、怨霊の悪い行いであるならば、妻が深く帰依する地蔵菩薩におすがりするほかはないと、毎日一心に祈願をつづけたところ、ある日の夜、不思議な出来事がありました。又四郎の夢に一人の僧が現れ、「私のすがたを一寸三分に彫刻して川に浮かべなさい」という。又四郎がすぐにはできない、と答えると、「では印像を与えよう」といわれ夢からさめました。不思議な夢だと思いつつ、ふと枕もとを見ると、地蔵菩薩の尊影があらわれた小さな「霊印」がありました。そこで又四郎はこの霊印を印肉にしめし、宝号を唱えつつ、紙片に一万体の「御影」をつくり、両国橋から隅田川に浮かべ、帰宅しました。
すると翌朝、病床の妻が又四郎を呼び、「今、枕もとに死魔が現れたが、お坊さんが杖で外へ突き出すのを見ました」というのであった。以後、重かった妻の病はみるみる快方に向い、病気が治ったといいます。さて、この霊験に感心し、又四郎から地蔵菩薩の「御影」を授かった西順という僧がいました。
正徳五年(1715年)のある日、西順が出入りする毛利家の屋敷で、女中があやまって口にくわえた針を飲み込んで苦しんでいました。そこで西順が懐中より御影を取り出し水で飲ませたところ、誤飲した針が、地蔵菩薩の尊影を貫いて出て来ました。以上は又四郎が、享保十三年(1728年)にみずから記し、霊印とともに高岩寺に献納された霊験記の抄録です。
高岩寺ではこの霊印を「本尊」として本堂・地蔵殿に祀り、和紙に霊印で印した「御影」(おみかげ・おすがた)を広く参拝者等に授与しています。御影は病を治し、針を抜いた本尊延命地蔵菩薩そのものであり、昼夜携帯し、あるいは体の痛いところ、よくなってほしいところに貼るなどしてもご利益があるといいます。いつしか「針抜き」は「とげ抜き」となり、針のみならず、さまざまなとげを抜く地蔵菩薩として江戸中に広く知られるようになったのであります。
曹洞宗萬頂山高岩寺は、慶長元年(1596年)釈迦牟尼仏を本尊として江戸湯島(神田明神裏手)に開かれました。明暦の大火(1657年)で全焼し、下谷屏風坂(現上野)に移りました。この時期地蔵菩薩は入仏しました。その後明治二十四年(1891年)区画整理のため、現在地 北豊島郡巣鴨町に移転し、今日に至ります。